「や」行 「わ」
八木正生(やぎ まさお)p,comp,arr 1932年11月14日東京都生まれ
故人。青山学院高校。1951年に松本伸とイチバンオクテットでプロ入り。その後渡辺貞夫とコージーカルテット、
ジョージ川口、宮沢昭等のコンボで活躍。ビッグバンドの作・編曲もうまく、シャープスアンドフラッツに
意欲作を提供しLP化されている。
山木幸三郎(やまき こうさぶろう)g,comp,arr 1931年4月18日東京都生まれ
千葉県立市川工業高校卒業。最初「米のカツギ屋」をしていた。やがて米を買ってくれる寿司屋
に丁稚奉公に入り、その寿司屋の息子の影響で音楽が好きになり、スチール・ギターを
始める。その後ジャズが好きになりギターに転向(高校生の頃)17歳でプロになり、
進駐軍のキャンプ回りのバンドのボーヤをやり始める。
(山本広雲とシャンペンセレナーダス、榎島靖起とリズムメイツ等)
その後自己のグレイシー5(稲垣次郎、高見弘、山崎唯、金井英人らがいた)等を
経て1953年に宮間利之とジャイヴエイセスに参加。
その後ニューハードと改名した以降今日まで、ニューハードに膨大な優れたスコアを提供し
同バンドの発展に大貢献。特に「振り袖は泣く」に代表される日本の伝統をジャズに投影した
オリジナル作品は高く評価されている。
片岡輝彦と共にニューハードの大番頭。同バンドのほぼすべてのレコーディングに参加。
山口耕二朗(やまぐち こうじろう)tp 1946年1月1日大分県生まれ
国立音楽大学卒業。東京ユニオン、ゲイスターズ等を経て、1976年〜78年頃までニューハードで活躍。
山白恭二(やましろ きょうじ)p,arr 1951年6月23日大阪生まれ
大阪で1970年にギタリストでプロ入り。すぐにピアニストに転向。幾つかのコンボ
を経て1974年アロージャズorchと並ぶ名門ビッグバンド白井克二とニューソニックに入団。
この時山下洋輔3との共演も経験する。1981年に上京しコンボ他多彩な活動を行っている。
トライアスロン完走三十数回という強靭な体力と海外留学経験を持つ明晰な頭脳の持ち主。
山田壮晃(やまだ たかあき)ts,comp,arr,leader
山田陽亮。ビッグバン・オーケストラを1992年に結成。都内ライブハウスを中心に活躍中。
CDも4枚発売中。2003年秋に5枚目を出す予定。
山本邦山(やまもと ほうざん)尺八 1937年10月6日滋賀県大津市生まれ
2014年2月10日死去。京都外国語大学卒業。日本の誇る尺八奏者。
1958年、世界音楽祭に出演。(パリ)その後当時日本に住んでいたトニースコットと共演、
1966年3月にヘレンメリルのリサイタルにゲスト出演等、多くのジャズメンと共演。
1967年にはシャープスアンドフラッツと米国ニューポートジャズFesに出演。大好評を博す。
以降同バンドと数枚のLPを吹き込む。ニューハードと共演したLPもある。
2002年8月人間国宝に指定された。
山屋清(やまや きよし)as,bs,comp,arr 1932年3月29日東京都生まれ
2002年7月9日死去。日本大学中退。1951年高浜哲郎とエスカイヤ・キャッツ、
山本広雲とシャンペン・セレナード、鍋島靖起とリズムメイツなどを経て53年自己のファイン・ダンディーズを結成、
1955年にバンド名をフォー・エイセンに改称。間もなく解散し1957年〜60年シャープスアンドフラッツでバリトンサックス
で活躍。退団後は多くの作編曲をシャープスアンドフラッツ等のビッグバンドに提供しレコーディング。
また1959年4月、前田憲男、三保敬太郎と「モダンジャズ3人の会」を結成し、日本ジャズの作編曲のレベル向上・
発展に大きな原動力となる。1965年夏頃、野村良に代わって東京ユニオンのリーダーを約1年務める。
その後もフリーの作・編曲家で大活躍、膨大な数のイージーリスニング等のレコーディングがある模様。
1965年にはレコード大賞の編曲賞を受賞。(ノーチェ・デ・東京 歌:金井克子)
悠 雅彦(ゆう まさひこ)ジャズ評論家 1937年11月1日神奈川県逗子市生まれ
学生時代に米軍キャンプでジャズを唄う。早大卒業後プロ入りしニューハードで唄う。
1964年日本クラウンに入社。三島たけしの名でレコーディング。翌年歌手を断念。
作・編曲・DJに転進。1968年11月よりSJ誌に執筆を開始しジャズ評論家で活躍。
2000年10月のニューハード結成50年記念コンサートには、司会を務めた。
YU・KA・RIE(ゆかり)ts
本名は塚越優香。国際基督教大楽卒業。
父は元NHKアナウンサーだった。小学生の頃3年間ほど米国に住む。
帰国後、大学に入学し1980年代前半くらいから、タンゴ・ヨーロッパ(女性ばかりのバンドだった)
にキーボード奏者で参加した。その後小林克也のバンドなどを経て、ロックバンドの「じゃがたら」に
加入。テナーを始めたのは1985年頃である。ロック・ビッグバンドのザ・スリルに創立時よりtsで参加し
全アルバムに加わっている。自己名義のCDも有り。
横山均(よこやま ひとし)tp 1952年9月21日札幌市生まれ
東京ユニオン、1976年シャープスアンドフラッツ、キューバンボーイズ、インナーギャラクシーorch、
1979年5月ゲイスターズ入団し活躍。
吉田憲司(よしだ けんじ)tp 1947年4月9日岡山県生まれ
国立音大卒業後、東京ユニオンでプロ入り。猪俣猛とサウンドリミテッドを経て渡辺貞夫リハーサルバンド、
SMCオーケストラ、1978年三木敏吾インナーギャラクシーオーケストラに参加し活躍。
吉田智治郎(よしだ ともじろう)tp 1935年1月3日群馬県新田郡生まれ
1958年頃よりtpを始め、スカイライナーズ、キューバンボーイズ、ダウンビーツ、スイングビーバーズ、
東京ユニオン、1973年スイングフェイスで活躍。
吉永寿(よしなが ひさし)as 1953年1月25日静岡県藤枝市生まれ
1973年プロ入り。1976年ダン池田とニューブリードで活躍。その後インナーギャラクシーorch、
新井英治オールスターチーム、スタジオワークで活躍。
四方田勇夫(よもだ いさお)ds 1945年1月19日東京都八王子市生まれ
山梨県甲府市立商業高校。1963年鷲尾昌之介とノットダンデーズでプロ入り。その後いくつかのコンボ、いわぶちまもると
クラウンオーケストラ等を経て東京ユニオン、スカイライナーズ、1970年再び東京ユニオンに参加。
1973年1月〜76年末ニューハードに入団。数回の海外遠征等、黄金時代ニューハードのリズムの要で大活躍。
ニューハードでのレコーディングが多くある。
和田淳生(わだ すみお)b 1954年大阪府高槻市生まれ
1980年7月東京ユニオン入団。数年間活躍。
渡辺香津美(わたなべ かずみ)g 1953年10月14日東京都生まれ
暁星学園。今やワールドワイドな活躍を続ける天才ギタリスト。ビッグバンドは
1973年シャープスアンドフラッツと「牧神の午後」録音、
1974年ヤマハリハーサルオーケストラ、1975年SMCオーケストラに参加。
1975年にニューハードのゲストで「ジャズオーケストラ75」の録音に参加。
渡辺貞夫(わたなべ さだお)as,ss,sn,fl,comp,arr 1934年2月1日栃木県宇都宮市生まれ
バークレイ音楽院卒業。ご存知、我らの世界のナベサダ。1951年上京、デビュー以降の活躍は周知のとおり。
ビッグバンドとの共演は1960年にシャープと「ソウルを求めて」、1961年、1962年にニューハードとLPを録音。
その後シャープスアンドフラッツに幾つかのアレンジを提供していてLP化されている。
演奏活動での活躍は勿論、もう1つの大きな功績は1962年にバークレイに留学した成果を65年に帰国後、
ヤマハの教室を通じて多くの後進プレイヤーに指導したことである。1968年2月頃?スタートした
同教室の優秀な生徒と当時の若手ミュージシャン(後に向井滋春、本田竹彦、渡辺香津美、峰厚介、大友義雄らも参加)
を中心に編成され活動したヤマハリハーサルオーケストラからは多くの有能ミュージシャンを輩出した。
1997年も自己のリハーサルオーケストラを編成して演奏。
渡辺辰郎(わたなべ たつろう)as 1927年1月1日東京都生まれ
東京外大フランス語科卒業。無名のビッグバンドを経て渡辺晋とシックスジョーズ、シックスレモンズ、ニューサウンド
オーケストラ等を経て自己のコンボを結成。1963年〜71年小俣尚也とドライビングメンで活躍
アルト3ナベ(渡辺貞夫、渡辺明)の一人。
渡辺弘 (わたなべ ひろし)leader 1912年広島市生まれ
戦後間もなくスターダスターズを結成。米軍クラブを中心に活動を開始。
それまで地味な存在だったバンドリーダーの存在が独特の壁塗りスタイルの指揮で、
一躍有名となる。軽音楽界のボスとして君臨し、全盛時代には多くの歌手、プレイヤーが集まり、
大活躍した。かっての皇族関係のレセプションにはたいがいスターダスターズが出演した。
1962年6月〜8月にはソ連演奏旅行を成功させた。同バンドからは松本文男tp、
日野皓正(かって同バンドで4th tp)、本木英夫tp、保坂俊雄ts等多くのスタープレイヤーが輩出した。
ドリフターズの加藤茶もバンドボーイだった。
1969年脳溢血で倒れ、闘病生活を送っていたが1988年12月22日死去。
同氏についてはWikipediaに詳しい記述がある。
ワンツー清水(わんつう しみず)leader 1922年6月29日群馬県桐生市生まれ
故人。本名は清水一二。東北大学卒業。学生時代はバイオリンを演奏し、
ジャズが好きだった。パチンコメーカー西陣を創業し社長を務めた。
そのかたわら宇宙楽団を率いて活躍した。(西陣の社員はかって全員が変名で
活動していたことで知られる。現在は一部の社員のみ変名で活動中)
西陣社員を中心に一流プロバンドのメンバーをスカウトして各セックションの
リードに据えた。村岡建らを特別メンバーに入れてコンサート活動を行う。
佐藤允彦、渋谷毅らもスコアを提供した。1968年ソ連公演を敢行。サン・ラを尊敬。
自主製作レコードも製作した。
(1970年5月発売17cmシングル盤 「火星人の行進」 LP 「宇宙楽団と踊ろう」など)
(wikiによると漫画原作者の牛次郎は1966年ころ宇宙楽団に参加、電子楽器を駆使し
葬祭用音楽を作曲・録音した、とある。)