1950年 ジャイブ・エーセズ誕生!
1950年 1月 宮間利之,「ジャイブ・エーセズ」を結成。「宮間利之とジャイブ・エーセズ」
主要メンバーは、
森川周三(tp),大日方一雄(ts),加藤武(as),原英男(ds)等10人編成のビッグコンボであった。
結成当初,宮間利之はアルトサックス,クラリネットを吹いていた。
ピアニストは宮間夫人の貴久江さんだった。
立川「シベリアン・クラブ」,グランドハイツ「NCOクラブ」等に出演,米軍キャンプ活動が中心であった。
九州(福岡)の板付飛行場には1年ほどいた。
ジミ-荒木(as)にビ-バップの指導を受ける。
松尾和子が専属歌手であった。
1955年 立川・シベリアンクラブにて
歌手は松尾和子 前列右から二人目宮間利之as
1953年 この頃ジョンソン空軍基地「NCOクラブ」に出演。(58年迄)
このジョンソン時代に山木幸三郎(g),高見弘(as),石川晶(ds),竹村繁(tp),
鳥居高登志(tb)ら中枢メンバーが入団。
山木,高見が毎日のように書いてくるモダンなスコアを演奏し,若い米兵に喜ばれていた。
(NCO=Noncommissioned Officerの略。下士官のこと)
1954年 市原宏祐(ts)入団。
1956年 前川元(as)入団。(翌年シャープス&フラッツに移る)
1958年 ジョンソン空軍基地の仕事をやめる。これを機にバンド名を「ニューハード」
と改称,「宮間利之とニューハード・オーケストラ」誕生する。
(65年夏頃まではニューハード・オーケストラが正式名称です)
(ニューハード:「新しい小羊の群れ」の意,ウデイ・ハーマンorchのファースト・ハード,セカンド・ハードにも由来する)
・ダンス・バンドとしてスタート,レス・ブラウン,レス・エルガート,スタン・ケントン等白人系バンドのナンバーを
中心に演奏していた。
・ハーマンの<アーリーオータム><フオーブラザース>なども演奏していた。
新橋・フロリダにて ドラムスは石川晶
宮間利之は指揮に専念するようになり,メンバー再編・増員,フル編成のビッグバンドに改編。
東京に進出し銀座「美松」,新橋「フロリダ」,「モンテカルロ」等のダンス・ホールへ出演するようになり
モダン・ジャズをやるようになるがクラブ側には不評で,クレームをつけられたり,契約打ち切り
になったりで良い仕事場には恵まれなかった。
苦難の時代であったが,宮間利之と山木幸三郎は「時代と共に生きていこうよ。」と誓い合う。
9/6 「ジャズ・アット・ザ・ビデオ第37回コンサート」出演。
[J・A・T・V 3つのバンドと3台のピアノ](有楽町駅前・蚕糸会館6F
ビデオホール)
10/4 「ジャズ・アット・ザ・ビデオ第38回コンサート」出演。
[J・A・T・V デイキシーとスイングとモダン](有楽町駅前・蚕糸会館6F ビデオホール)
● 上記の第37回と第38回のヴィデオホールのコンサートは録音されレコード化。
ニューハードの記念すべき初LPとなった。
(「ジャズ・アット・ザ・ビデオホール」(日本ビクター:LJ-42 10インチ盤)
<我らの仲間(The Group 山木幸三郎作・編曲)>を収録
(東京進出後初出演のジャズ・コンサート)
他の収録は
狼(ジョージ川口とビッグ・フォー+1)
ポーカー(秋満義孝クインテット)
テンダー・ロイン
遊星(西条孝之助とウエスト・ライナーズ)
我らの仲間 (ニューハード)
ブラック・アンド・ブルー (北村英治とヴィデオ・デキシー・ランダース)
セントルイス・ブルース
聖者の行進 (ビリー・バンクスとヴィデオ・デキシー・ランダース)
黒い瞳 (小野満とシックス・ブラザース)
12/20 「ジャズ・アット・ザ・ビデオ第40回コンサート」出演
[ジャズ・コーラスの祭典](有楽町駅前・蚕糸会館6F ビデオホール)
リリオ・リズム・エアーズ,ブライド・リズム・ボーイズ,フォー・コインズ,トリオ・ロス・チカノス,ハロナ・リズム・ボーイズ,
ダイアモンド・シスターズ,クリスタル・シスターズ,伊藤シスターズ
ゲスト:笈田敏夫,武井義明,丸山清子
伴奏:宮間利之とニューハード,中村八大モダントリオ
これらのコンサートで,すでに山木幸三郎作・編曲の日本的情緒作品「海燕」,「晩夏」等の作品が
演奏されていた。「振袖」の原点的作品である。
1959年 上高政通(tb)入団。