宮間利之 ニューハード結成まで
1921年 10月31日 千葉市に生まれる。(料亭「魚岩」の一人息子)
(大正10年)
中学2年の時,近所の株屋の息子が作ったハーモニカ・バンドに入る。
この時が音楽との出会いとなる。
この息子から<あきれたボーイズ><デイック・ミネ><服部トミコ><ベテイ・稲田><松本伸><谷口又士>
<アメリカの映画音楽>などのSP盤を借り,よく聞いた。(ジャズとの出会い)
千葉商業高校2年の時に父死亡。
学校をやめて,家業を手伝う。
この時,映画を見たり,SPを聞いたりして,ミュ-ジシヤンになる意を強くする。
16才の時,銀座に引っ越す。
日本橋の百貨店「白木屋」勤務。
近くのジャズ喫茶「エリントン」でB・グッドマン,D・エリントンを聴き,ジャズ・マンになろうと決意。
1939年 6月 将来ジャズをやりたくて海軍軍楽隊入団。(横浜・海兵団)
(昭14) 4年後輩に原信夫(ts,本名・塚原信夫,後にニューハードのよきライバルとなるシャープス&フラッツを結成),
海老原啓一郎(as,後にロブスターズを結成)がいる。
1941年 6月,第一艦隊配属,軍楽隊員として戦艦・日向に乗船。
(昭16) 12月,ハワイ・マレー沖海戦参戦。(日向)
その後伊勢,山城,長門,大和に乗船。
1943年 大阪勤務となる。(海兵団)(大和トラック島出撃の1週間前に転勤となる。命拾いだった。)
(昭18)
1945年 8月15日終戦。除隊,10月に復員,東京へ帰る。
(昭20) 神田でアルト・サックスを買い(クラリネットは京都まで買いに行った),
日大の学生とバンド「ラッキー・パピー」を結成。(18人編成) 進駐軍の慰問を行なう。司会はトニ-谷
だった。コ-チは服部良一,譜面はなんでも初見で読めたが,アドリブ,ジャズっぽい吹き方に苦労した。
このバンドは半年ほど続いた。その後 「川口ダンス・ホール」「メリー・ゴールド」
「オアシス・オブ・ギンザ」などに出演するマイナー・バンドを渡り歩く。
その後「後藤博とデキシーランダース」,「奥田宗弘とブルースカイオーケストラ」
「レイザー・バック」,「明石バンド」等のバンドに参加する。
デキシ-・ランダ-ズでは最初バリトンサックスを担当,後に3rdアルト,ブル-・スカイではリ-ドアルトを担当。
当時の「レイザー・バック」のメンバーは
宮間利之,北沢・・(as),広瀬正,宮沢昭(ts),吉葉恒雄(b)等。
帝国ホテル,第1ホテル,有楽町ホテル等で演奏を行う。
宮間さん自身は尊敬する人物として,チャーリー・パーカーと後藤博をあげている。
[後藤博の略歴]
1910年(明治43年)頃九州方面で出生,医大を中退後演奏活動に入った。1938年
(昭和13年)頃から頭角をあらわし,当時トランペット・ソロでは南里文雄と双璧といわれた。1950年から
約3年間,デイキシーランダースを率いて日劇に出演した。1955年頃,青森・三沢の米軍キャンプに移り結婚。
1961年頃北海道稚内で没。
このページは「内田晃一:日本のジャズ史」,「ニューハード・ニュース」を資料に作成しました。