Takeru Muraoka
村岡 建 むらおか たける ts,ss,fl
1941年(昭和16年)1月12日東京生まれ
楽器は最初にハーモニカを始め、中学生の時ジャズに興味をもちはじめた。クラリネットを始め、最初に
インスパイアされた曲がジェリー・マリガン・カルテットのバードランドの子守り唄。芸大志望だったが家庭
の事情で断念。文化学院在学の時アルト・サックスを持ってアルバイトでクラブの仕事をするようになる。
同時に新宿のジャズ喫茶「きーよ」に徹夜で入り浸る生活が続いた。文化学院を卒業する頃(1959年)
ジョージ川口BIG4+1にスカウトされてプロ・デビュー。1年ほど同バンドで活躍し60年6月、五十嵐
武要クインテットに加入。ここには半年ほどいた。テナーサックスに転向したのはこの頃。またこの頃銀座・
銀巴里で日野皓正、稲葉国光、菊地雅章らと知り合いとセッシヨンを重ねる。この後ビッグバンドの浜水俊朗
とゲイ・スターズ、64年4月には白木秀雄クインテットに参加し白木クインテットで日野皓正とともに65
年10月、ベルリン・ジャズ・フエステイバルに出演した。実況録音LPも残っている。しかしこのベルリン
・ジャズ・フエステイバルで多くの世界の一流ジャズメンと接し、自己の未熟さを痛感し、白木クインテット
を退団。すべてを基礎からやり直すべく66年1月、小原重徳とブルーコーツに入団。1年半ほどサックス演
奏技術の徹底的研鑚を実行する。コルトレーンのレコードも徹底的に採譜し研究した。この頃渡辺貞夫が米バ
ークレイから帰り、そのメソッドを自宅で教えていたが、その教室にも通って勉強した。がそのうちにスラン
プに陥り、偶然耳にしたR&Bバンドが気に入り、ふらふらと入団。約3ヶ月在団した。その後67年10月
西条孝之介が抜けた沢田駿吾クインテットに迎えられる。68年2月には菊地=日野クインテット、菊地が抜
けた後の日野皓正クインテットで70年秋頃まで大活躍する。日野〜村岡の2管フロントラインは非常に強
力、かつ魅力的で日本ジャズ史に残る名クインテットとなり、大人気を得て、ヒノテル・ブームと呼ばれる社
会現象となった。
この間69年3月に発足した石川晶とカウント・バッフアローズにも参加。70年2月には菊地雅章らとカル
テットで初リーダー作「Takeru」を録音、全5曲すべて自身のオリジナルを提供し、コルトレーン的というよ
りW・ショーターを思い浮かべる密度の濃い演奏は高い評価を得る。
このレコードを抜きに村岡を語れない。また同年4月「サキソフオン・アドベンチャー」コンサートに高木元
輝、菊地雅章らと出演、意欲的な演奏を行う。(実況LPが残っている)
日野クインテット退団後はフリーダム・ユニテイ、石川晶とゲンチャーズ、自己の村岡建とブラス・セクシヨ
ン、その他内外の多くの分野のジャンルのミュージシヤン、歌手と共演。スタジオ・ワークを中心にライブ・
ハウス、レコーデイング、コンサート、テレビ等で活躍し膨大な量のレコード等の録音がある。
60年代末〜70年代初頭の日本のジャズが最も創造的だった時代の代表的名テナーマン。近年も阿川泰子の
バックバンドのリーダーを務め、またサックス指導を通じ、後進の指導・育成も情熱的に行っている。
村岡建氏のHP「村岡建のサックスとジャズのページ」で1968年5月・新宿ピット・インでの菊地=日野
クインテットの貴重な演奏が聴けます。