Terumasa
Hino
日野皓正 ひの てるまさ tp,flh,comp
1942年(昭和17年)10月25日東京都杉並区高円寺生まれ
父は日劇等で活躍したタップ・ダンサー、トランペッターの日野敏、この父からタップダンスと9歳からト
ランペットを学ぶ。13歳の頃には米軍キャンプで父のトラとしてダンス・バンドの活動を始め、プロ入り。
外苑中学卒業後は松田運とブルー・ソックス、谷口安彦とプレミア・スイング、ビッグ・バンドの渡辺弘とス
ターダスターズの4番トランペット(同バンドの佐藤勉に師事している)、草ヶ谷隆夫とクレッシェンド・シ
ックスで演奏し血を吐くような練習と努力を重ねる。やがて菊地雅章の誘いで新世紀音楽研究所に参加。この
時に村岡建、高柳昌行、富樫雅彦、稲葉国光、金井英人、山下洋輔らとセッションし研鑚を積む。この時の貴
重な録音が「幻の銀巴里セッション」でLP化されている。稲垣次郎クインテットを経て64年5月白木秀雄
クインテットに仲野彰の後釜で入団。(村岡建も1ヶ月前に入団している。)その間にも銀座の「ジャズ・ギ
ャラリー・8」に出演しモダン・ジャズを研究。日野皓正の代表曲「アローン・アローン・アンド・アローン」
の演奏をブルー・ミッチェルが聴きブルー・ノートに録音したのはこの頃。65年10月に同バンドでベルリ
ン・ジャズ・フェスティバルに出演し欧州にも名を知られる。67年11月タクトに初リーダー作「アローン
・アローン・アンド・アローン」を録音。同年SJ誌読者人気投票で初の1位に選ばれる。68年2月、音楽
的な妥協を一切廃した意欲的な実験的バンド、菊地=日野クインテットに参加、タクト・レーベルと契約し
「菊地=日野クインテット」を録音。日本初の本格的モダン・ジャズの録音として今聞いても全く色あせてい
ない。菊地のバークレイ留学後の10月に日野皓正クインテットに改編。そのズバ抜けた演奏、容姿で空前の
「ヒノテル・ブーム」が巻き起こる。69年7月に録音した「ハイ・ノロジー」でそのピークを迎え同LPは
3万枚の大ヒットを記録。また「白昼の襲撃」の映画音楽を担当しサントラ盤も大ヒットする。音楽雑誌はも
ちろんフアッシヨン雑誌にも登場し大ブームとなった。70年4月に初の渡米を行い、S・グロスマンらとレ
コーデイング。70年秋にレジー・ワークマン、植松孝夫を迎えてクインテットを改編。71年にベルリン・
ジャズ・フエステイバルに自己のクインテットで出演。73年静岡県・沼津市に一家で転居する。CBSソニ
ーと契約。75年には一家でニューヨークに移住し、音楽生活の拠点とした。ギル・エヴァンス・オーケスト
ラ、ジャッキー・マクリーン、ラリー・コイエル等のグループで活躍。79年にはフュージョン・ブームに乗
って「シテイ・コネクシヨン」を発表し、大ヒットさせる。81年菊地雅章と「ダブル・レインボー」を録音。
82年「ピラミッド」を録音、全国ツアーを行う。84年にはロサンゼルス・アート・フェスティバルに招待
される。また同年ジャズでは初めて新橋演舞場で「ファンタステイック日野」コンサートを中村勘九郎ら豪華
ゲストで開催。87年度から「オール・ジャパン・ジャズ・エイド」の発起人の一人になって活躍。
89年にブルーノート・レコードと日本人としては初めて契約。「ブルー・ストラック」を発表。90年から
アジアのミュージシャンを集めて日野皓正&アジアン・ジャズ・オールスターズを結成し95年〜96年にア
メリカ〜アジアツアーを行う。97年台湾の「第16回国際芸術祭」シドニーの「日豪友好100周年コンサ
ート」出演。200年CBSと再契約「トランス・フユージョン」を録音。2001年3月プノンペンでチャ
リテイー・コンサートを開催。2002年4月芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。
天性の才能に加え、絶えず努力と研鑚を重ね、テクニック・意欲・情熱・音楽性等すべての面で常に最高のレ
ベルにあり、かつ自己を見失うことなくワールド・ワイドな活躍を行っている間違いなく日本を代表するトラ
ンペッター、音楽家である。